第1部 パークアンドライドとは何か

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第3章 パークアンドライドの経済的視点

前章ではパークアンドライドの仕組みについてみてきた。しかし、パークアンドライドも1つの事業であり、従ってそのプロジェクトが行われるには経済的な裏付けがなければいけない。経済的裏付けはどのように行われるべきなのか。この章ではその方針と実例をみていこうと思う。

経済的裏付けは2つの方法ではかることができる。1つは一般的な「採算性」の問題である。もしこのプロジェクトが採算のとれるものであったら、採用されるわけである。採算のとれるということは収益があがるということであるから、ならばそのプロジェクトは民間企業が投資対象とすることも考えられる。しかしパークアンドライドという事業は、決して投資額に対して必ずしも会計上の黒字を出せるとは信じがたい。だがパークアンドライドの実施によって利益を得る人々はパークアンドライドの利用者だけではない。パークアンドライドの実施によってなされる道路の混雑緩和、移動のスピードアップ、周りの商店街への波及効果....。これらのことは決して会計上の損益計算にはでてこない。そこで出てくるのが経済の「社会的厚生」という考え方である。一般にはいわゆる「完全競争市場」の原理で、企業がお互いにしのぎを削っておればこの社会的厚生は最大化されるという。しかしそれは市場において直接に関係した供給者と消費者だけがその厚生を享受する場合である。しかし前述の通りパークアンドライドでは必ずしも直接の関係者だけが厚生を独占しているとは言い難い。従って真の「社会的厚生」を正しく評価する必要が出てくる。この事業の投資額に対してこの社会的厚生を金額に変換したものが上回ればこのプロジェクトは意味があったものであり、公共セクターによって供給される意味があるというものである。

この章では公共経済学と都市経済学を援用し、まず経済理論的に考えたときのパークアンドライドとは何かを考えてみたい。

第1節 『混雑』の経済学

パークアンドライドがなぜ生まれてくるのであろうか、その要因のうちには道路の混雑というものがあるというのはいうまでもないことであるが、それが最も重要な意味を占めているというのもこれまた周知の事実である。ゆえにパークアンドライドの経済的意味を評価するに当たっては、その混雑が経済学的にいかにとらえられるかをみていかなければならない。

道路が混雑した場合どのような問題が生じるか考えてみよう。混雑すれば当然首都高速といえどスピードは出せず、それだけ自動車の走行速度は遅くなる。走行速度が遅くなるということはそれだけ余分に時間がかかるということである。余分に時間がかかるということはどういうことだろう。普通自動車に限らず乗り物に乗るという行為は、専ら通勤通学だとか遊園地に行くとかほかに用事や目的があって行うことである。そうして目的地に到達する時間が遅くなればそれだけ目的に費やす時間は少なくなるのである。もっと目的に費やす時間が長ければ、ディズニーランドのパスポートならもっとアトラクションが楽しめる、アルバイトだったらもう少し多く稼げるわけである。これに比べて車内で眠気スッキリガムをかみ、FMの交通情報に耳を傾ける時間はなんと無駄なことであろう。

経済学の視点から見れば、これらただの時間の無駄遣いは資源の浪費に他ならない。であるとみる。渋滞で過ごす時間を本来の目的に費やせばそれだけ金銭を稼いだり欲求を満たしたりできるからである。「時は金なり」経済学的には時間も大切な資源の一部である。渋滞は資源の無駄遣い、すなわち損失なのである。だがこの損失は単に自動車に乗っている個人が被っているだけではなく、この混雑する道路にあえてつっこんでいった当人のせいでさらに混雑がひどくなるという点で他人にも損失を与えている。それを足しあわせると、要するにお互いに損失を与えあっているというわけである。つまりはこの損失は単に個人レベルでの損失にとどまらず、社会全体の損失になっているので「社会的損失」というようにみることもできる。時間のほかにも多くの損失が生まれている。のろのろ運転による燃費の悪化、空気の汚染、混雑から受ける肉体的、精神的疲労、決して混雑はよいものではない。


混雑に対しては様々な対策が講じられてきた。高速道路では対面通行であったところを片側2車線にし、バスなら車体を大きくしたり本数を増やしてきた。しかしこのような対策は(少なくとも日本では)キャパシティが大きくなるだけ利用者も増え、結果として元の木阿弥に戻ってしまう例が少なくなかった。よって発想の転換が必要となった。すなわち利用者の数を減らそうというのである。経済学的にみれば利用者、すなわち交通サービスに対する需要は料金によって決定されうる。単純には料金が高ければ利用者は減り、料金が低ければ利用者は増えるわけである。これを応用した考え方が「ピグー課税」と呼ばれる考え方である。考え方自体は約1世紀ほど前のアメリカですでに生まれていた。

まずこれを考えるには「私的費用」と「社会的費用」の区別をしなければならない。私的費用はすなわち個人の支払う道路料金だとかガス代とかであり、その自動車に乗って目的地に移動するのに実際に払った各種料金である。社会的費用とはこの私的費用のほかに、混雑の結果生まれる社会的損失をコストとして金銭的に評価した場合の費用を加算したものである。この社会的費用でもし利用者と料金が決まるならば、ふつう社会的にみて望ましいと経済学では考える。なぜなら表向きにはでない、混雑の悪影響などが正しく評価された結果を含めた上で利用者の数が決定されるからである。

従ってこの私的費用と社会的費用の間には当然差が生じてくるのである。単純にはサービスの料金が低ければ利用者が増えるとは前述の通りだが、利用者の数はふつう見た目の費用である私的費用で決まるから、社会的費用より私的費用の方が低ければ、実際の利用者の数は社会的にみて望ましい利用者の数よりも多くなるわけである。その結果が混雑とのそれが生み出す諸々の悪影響となって私たちの目の前に現れるわけである。ならばどうするか。この私的費用と社会的費用との差を、公共団体(都や政府)が「混雑税」の名目で課税するのである。その結果見た目の私的費用と社会的費用との差が埋まり、料金が高くなった分だけ利用者が減って社会的にみて望ましい利用者の数になるのである。この課税のことをピグー課税と呼んでいるわけである。


ここでまた発想の転換である。料金を高くしなくとも需要そのものを減らすという発想もある。それはどのようにして行われるか。利用者を減らしてもらう代わりに補助金を払うわけである。自動車を利用するということの大きなメリットはなんといってもDOOR to DOORという点であるが、このメリットを捨ててもらう代わりに、それに見合う補償的な補助金を支払うことで利用者の数を減らすわけである。なにも補助金は直接現金で支払われる必要もない。都心で確保しづらい駐車場を無料もしくは格安で提供し、またバスや電車を利用する料金を優遇するといった形でもよいわけである。ここからパークアンドライドの発想は生まれてくるわけである。

第2節 都市経済とパークアンドライド

前節の話は理論的な内容に終始してしまったが、実際に都市において交通の需要管理を行い、混雑を減らすためには「課税」によって障壁をもうけ都市への交通流入量を減らしながら、一方で漏れてしまった利用者を「補助金」的なパークアンドライドシステムなどを応用して、別の交通機関に振り分けスムーズに都市内に流入させる必要がある。すなわち「課税」の面と「補助金」の面をうまく使い分けながら都市へ流入する人やものを捌くことで、混雑問題は最適に解決できるわけである。少し話が大きくなってしまったので、少しパークアンドライドそのものの細かい話へ移っていこう。

パークアンドライドによる交通需要管理を行う場合、その成功の秘訣は都心にはいる際に、自動車利用者のどれだけがバスや鉄道などに乗り換えるかということにかかってくる。適当に十分な数の利用者がバスや鉄道に乗り換え、宅配便や店舗への商品搬入などといった、“Door to Door”の輸送の方が効率的な輸送サービスだけが市街地に入っていくようならばパークアンドライドは成功といえる。逆に旅客輸送でも、バスや鉄道のような軌道系交通を利用するよりも明らかに自動車やタクシーの方が効率的な場合、決してパークアンドライドを実施しても役に立たないだろう。


この成功の差はどのあたりで決まるのであろうか。大きな要因となるのは都市構造である。たとえば鎌倉市や神戸市のように市街地に流入する経路が数えられるほどであり、なおかつ市街地までの経路が谷間を縫うような細長い、沿線からの流入があまりないような単調なルートの場合、その移動は自動車で行っても鉄道で行ってもあまり変わらない。もし交通量が十分に大きければ自動車よりも電車に詰め込んで輸送した方が断然効率的である。しかし近年の地方都市のように都市機能が分散していて集積度が低く、また山川などの地理的条件によって都市への入り口が限られているわけではない場合、1台1台の自動車の目的地は同じ方向へ集中していることは比較的多くなく、もし交通量が集中するようなところがあってもそれが長く筋状となることがないため、電車にこの交通量を移し替えることは効率的とはいえない。このような場合パークアンドライドよりもほかの交通政策を実施した方が混雑緩和の助けとなるであろう。

これら交通需要の配分率は、工学的には統計的な計量モデルや非集計ロジットモデルなど様々な推定方法があるが、経済学的にはそれぞれの交通サービスの交差弾力性、すなわち片方の交通サービスの値段(たとえば電車の運賃)が1%高くなったときにもう一方のサービスの利用量(たとえば自動車利用者の数)が何%変化するか、という比率によって決まると考えられる。そして、この交差弾力性はその都市の都市構造によって決められるのである。前の例でいえば、鎌倉市のような前者ならば電車の運賃が安くなればそれまで乗用車を使っていた人々は敏感に反応し、電車を使ってもいいのでは、と考えはじめるかもしれない。しかし後者であったら電車の運賃がいくらやすくなっても、電車ではいけるところが限られているから不便だ、自動車の方が楽だ、といってあまり電車を使おうとは思わないだろう。パークアンドライドの実際にあわせていえば、いくら駐車場を用意し鉄道料金を割り引いても、都市構造とそれによって規定される交差弾力性が十分にないと意味がないということである。


以上パークアンドライドにまつわる2つのトピックについて経済学的な視点から考察を試みてみた。しかし理論的な推測のみでは実際にパークアンドライドを行うに当たって本当に意味があるものなのであろうか、ということは容易には断定できない。このような理論的な考え方を取り入れながら、社会的費用を含めて会計的に様々な数値を金額として実際に試算し、そのデータをもとに本当に費用に見合った便益が得られているのかということを計算するCost-Benefit-analysis(費用便益分析)によってその判断が下されるのが実務上の通念となっている。だがこの分析には正確なデータと多くの労力が必要であるので、紙面の都合上残念であるが、その実際の紹介はほかに譲ることとする。


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Last modified: 2008/9/27

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